智積院

鎌倉時代中期 根来山の塔頭寺院として建立
1615年 徳川家康が寺領を寄進
 
真言宗智山派大本山
 
本尊 大日如来

 

 もとは、根来山の塔頭寺院として建立されていたが、根来山が力を持ちすぎたため、秀吉によって焼き討ちにあう。その折、難を逃れるため京都に移った玄宥上人によって再興の一歩を刻む。
 その後、豊臣が滅び、徳川の天下となった折に、秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺の寺領を家康が寄進し、現在の原型となる。
 拝観受付を済ませると、倉庫のような収蔵庫にまず足を運ぶ。その中に収められている長谷川等伯一派による障壁画が見事。特に、長谷川久蔵(等伯長子)による桜図が圧巻。八重桜の花が胡粉を用いて盛り上げた立体的に描かれている絵で、息を呑む美しさだ。この収蔵庫に収められているのは、不慮の火災に遭うなどで、当時描かれていたものの四分の一ほどの現存画。それでも充分の美しさなのだから、四倍ということは、いわずもがな。残念だ。
 そして、講堂へ移動。その奥の大書院には先ほどの障壁画の一部のレプリカが飾られており、まばゆい輝きを放っている。そして、その向かいにはこぢんまりとしているが、さっぱり手入れされたお庭がある。このお庭は、中国の盧山をかたどった、利休好みのお庭と伝えられている。
 始めて訪れてから数年後、特別拝観ということで再び訪れた。
 大書院の奥の宸殿(普段は非公開)を拝観。堂本印象の襖絵が美しかった。また、等伯が描いた十六羅漢図もどこかユーモアがあった。
 また、金堂・講堂ともに昭和・平成に入ってから建設されたもので、コンクリート製っぽく、まだ新しい。
 この時は、冬の底冷えする時に訪れたのだが、非常に冷たい床にタイツ一枚…という過酷な状況(^_^;)。
 冬の京都のお寺拝観には、靴下なり足袋なりを一枚余分に持っていかねばなりません。冬の京都をなめたらあかん…(笑)。
 そして後日、今度は桔梗の時期に訪れました。お寺の紋も桔梗紋なだけあって、参道にはずらりと植えられていた。数も増えているらしいです。お庭の緑も冬枯れのときとは違って、青々としていました。う~ん、美しい。あと、舞妓さんに変身したときにも訪れちゃいました。えへ。ただ、現在は舞妓姿でお堂内に入れなくなっているとの情報あり。